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選択的夫婦別姓 夫婦同氏を定めた明治民法が離婚を劇的に減らした理由

明治民法がもたらしたもの

明治民法は、家制度を強化して男尊女卑を定着させた、との評価があるが、これは本当なのだろうか。古い「家制度」をことさらに憎悪する思想によって、明治民法の本来の姿が捻じ曲げられているのではないだろうか。

当時の資料を参照しながら、明治民法によって人々の生活がどのように変化したか、実際のところを見てみよう。

 

民法の大きな流れ

  • 1890(明治23)年 旧民法。施行されずに終わる。
  • 1896(明治29)年 総則、物権、債権
  • 1898(明治31)年 親族、相続
  • 1947(昭和22)年民法(現行民法)

 

明治民法の評価は、およそ以下のようなものが多いと思われる。

 この法律の中心は、男子を優先させて女子を従属させ、男子の中でも長男のみに権限を集中し…。

この明治民法のように世代差・続柄・性別の差異を強めて極度に家の存続を重視した制度は、世界に類がない。

*1(P49)

 この評価は、当時の日本を後の民主/人権思想から評価しているきらいがあり、基本的に家制度=古くて人権を軽視した制度、という視点で書かれている。しかし、逆に言えば家制度を否定的な視点で見たにも関わらず、明治民法には評価すべき点があったとすれば、かなり公平な評価となるはずだ。

立法者と施政者は、「家」の原理こそ日本家族の最重要事と考えたのだが…大多数は、「家」に見合うに足る資産も社会的地位も持たない庶民であったから、普通の家族には最初からなかなか適合しなかった。

*1(P50)

明治民法は家父長制の特徴を残していたが、武家と庶民の生活様式の違いを考慮して、従来の「夫婦別氏制」を「家族(夫婦、親子)同氏制」と改めるなど、庶民型/西洋型を指向した部分もあった。

また明治民法は、当時の不平等条約を改正する役割もあり、不平等条約を改正するためには、国内法が国際標準に合わせた形で整備されていることを海外に示す必要があった。日本の近代化/国際化には、こうした要請もあったのであり、やみくもに西洋にかぶれたわけではない。

大きな側面では(あまり言われていないが)、不平等だった条約改正に役立ったことである。アメリカ・ドイツ・ロシアなどはこの制定を持って、明治32年に改正に応じて治外法権が撤廃され、国際法的も先進国の仲間入りができた。

*1(P51)

 その他、国民生活に直接的に影響したものを列挙すると、

  • 第七百四十六絛 戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ稱ス(戸主及び家族はその家の氏を称す)と、妻も子供も戸主と同じ氏を称することになった(家族同氏。夫婦同氏、親子同氏) 第一コンサルティング株式会社 明治民法
  • 婚姻可能な年齢を男子満17歳、女子満15歳と定めた。これにより早婚を防止したことが評価された。
  • 重婚の禁止。少なくとも戸籍上では一夫一婦制となった。
  • 婚姻の届け出が、当事者二人と証人二人の署名(口頭でもよい)と簡素化された(男女とも25歳未満は両親の同意が必要)。以前にはあった費用の納入と儀式の義務がなくなり、世界でも最も簡素な婚姻手続きとなった。

 などである。

 

離婚の急減

明治民法(明治31年)施行後、離婚率が歴史的に減少したことはあまり知られていない。離婚率の急減にはどのような背景があったのか、見てみよう。

  • 明治30年 離婚件数12万4千件 離婚率2.8
  • 明治31年 離婚件数9万9千件 離婚率2.3
  • 明治32年 離婚件数6万6千件 離婚率1.5

以後、昭和戦前期まで6万~4万件と減少が続いた。

離婚率がこれほど大きく変動した時期は、戦前戦後を通じて他にない。

*1(55P)

図録▽婚姻率と離婚率の長期推移

 

 まず、離婚する場合の手続きは従来とほとんど同様で、明治民法で特に離婚が難しくなったわけではない。裁判をしない協議離婚が99%を占めていたが、この協議は、立場の強い男性に有利に働き、名目上は協議離婚でも、実態は夫側の都合による「追い出し離婚」に利用された、とされる。これは夫本人だけでなく、夫側の親族の思惑(あんな役に立たない嫁は離縁しろ)が働いていたのではないかと思われる。実際、それ以前の離婚訴訟は両親と親族が共同原告になっていた。

『百年前の家庭生活』では、離婚が減少した理由として次の3つをあげている。

  1. 離婚届に「婚姻に同意した者の署名」が必要であり、これについて「役場のチェックが厳しくなったのではないか」との思惑が生じたこと。
  2. 離婚時の子供の親権が父親優先であったこと(子供のために離婚を抑制)。
  3. 少なくとも表面上、親が離婚に積極的に関与することはなくなったこと。

1.の「役場のチェックが厳しくなったとの勘違い」は、そのように思った人もいたとは思われるが、離婚率が2年で半減するほどの要因とは考えにくい。

2.の「離婚時の子供の親権が父親優先」については、おそらくそれまでと変わらないもので、明治民法を機に変化したものではないから、やはり離婚急減の理由とはならないと思われる。離婚時に、父親に親権/監護権が優先されることは、当時のドイツやフランスも同様のものであり、明治民法が特に男尊女卑だった、というわけではない。

明治民法制定当時の西欧家族法もまた、多かれ少なかれ父の優位を規定…1896年制定のドイツ民法では、離婚の際は無責の配偶者が監護し、双方有責の場合は、女子および6歳以下の男児は母が監護するが、母の監護は子を代理する父の権利には影響がないとされた…フランスのナポレオン民法…も、監護権は無過失者に与えられたが…、母が監護者になる場合でも、「父が依然として親権の行使すを保持するとの構成がとられた」…。

つまり、「日独仏いずれの法制のもとでも、かつては原則として父が親権(行使)者であることを前提としつつ…。

離婚後の子の帰属—明治民法はなぜ親権と監護を分離したか—

 

 離婚が急減した主な理由は、3.の「少なくとも表面上、親が離婚に積極的に関与することはなくなった」ではないだろうか。当時の風潮として、家制度と夫のはざまで苦しむ女性を題材にした小説「不如帰(徳冨蘆花)」が大ヒットするなど、女性の間では家制度のくびきから逃れたいとの欲求が根強かったと思われる。

 

 山川菊栄の明治民法

山川菊栄は明治の社会主義を学んだ女性解放思想家。母は水戸藩の血を引く。女性の自立について与謝野晶子と論戦したことも。

山川菊栄 - Wikipedia

 山川菊栄が『武家の女性』の中で、封建時代に離婚が多かった理由を挙げているので列挙してみよう。

  1. 医療事情が悪く、夫の死、妻の死ともに多かった。未亡人となった女性は、子供(特に男子)がいれば婚家に残ることもあったが、子のない場合は一度実家に戻され、再婚相手を探した。
  2. 妻が子供を産まないことを理由にした離婚が少なくなかった。妾や養子をとるといった方法もあったが、皆がそれをできるわけではなかった。
  3. 妻の病気。特に警戒されたのはライ病であったが、それほどの病気でなくとも、療養が長引けば実家に帰し、さらに長引けば離縁ということがあった。
  4. 離婚を認める要件がはっきりしていないので、姑が嫁を気に入らないというだけの離婚もあった。
  5. 離婚の9割が婚家の都合によるもので、嫁の自己都合による離婚は例外中の例外。

と、「婚家(姑など)の意思による離婚が多かった」としている。これは、「明治民法が追い出し離婚を抑制した」との見方と一致する。

山川菊栄が優れていたところは、こうした封建時代の旧弊の下であっても、人々が無条件にそれを受諾して冷徹に生きていたのではない、ということを見通していたことだろう。

同時に妾をそういう理由で斬り捨てるというようなこともあまり例のないことでしょう。いつの時代にも、どの程度にか、人情と常識とが人間同士の関係を調節する作用をもたないことはなく、血の気のない法律や制度を、機械的、公式的に実施する者は多くなかったでしょうから。

*2(P144)

 

では、山川菊栄が明治民法について直接語った部分を見てみよう。

わが国の離婚率は…殊に明治三十二年民法の制定によって、妻の地位が従来よりはるかに安定し、みだりに離婚ができなくなってから、急に低くなっております。

…女性にとっとも社会にとってもまことに喜ばしい進歩と考えなければなりません。

…明治以来の社会の進歩は、日本の女性のため、かつ国民全体のために祝福されなければなりません。

*2(P145~146)

 この時期の離婚の急減については、ことさらに「家制度」を憎悪する思想により、まるで、「明治民法が妻を家に縛りつけたから離婚できなくなった」との言説を弄する者も少なくないが、全くの見当違いであることがわかるだろう。

明治民法は、結婚/離婚を「家」から(少なくとも法律上)切り離し、当事者夫婦の問題とした。この民法で「夫婦同氏」と定めたのも、結婚/離婚問題と同様、夫婦に対する家の過剰な関与を弱めるという点で方向性を同じくしていたと思われる。

 

 

参考文献

*1『百年前の家庭生活』湯沢 雍彦/奥田都子/中原順子/佐藤裕紀子 クレス出版(H18/11)

*2『武家の女性』山川菊栄 岩波文庫(H21/2)