我が心、本日も晴天なり

保守の補習時間

明治時代の夫婦別姓が、短期間で頓挫した理由

日本の氏の歴史の中で、明治9年の太政官指令により、「妻は結婚しても実家の氏を用いよ」という、いわゆる夫婦別姓制が定められました。
 
婦女人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事

 

「嫁に行っても、実家の氏を使いなさい」ということです。

 
妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる(夫婦別氏制)。
※ 明治政府は,妻の氏に関して,実家の氏を名乗らせることとし,「夫婦別氏」を国民すべてに適用することとした。なお,上記指令にもかかわらず,妻が夫の氏を称することが慣習化していったといわれる。

 この太政官指令を持って「日本はもともと夫婦別姓の国だった」とする夫婦別姓賛成論者がいますが、それを実情をまったく知らない者の言うことです。

日本がもともと夫婦別姓なら、明治9年の太政官指令はすんなり受け入れられていたはずです。しかし太政官指令の前、明治8年に氏の使用が義務化された時点で、すでに「どのように氏を運用すればいいのか」という混乱がおこっていました。

明治8年2月、明治新政府は「平民苗字必称令」を布告した。つまり、すべての日本国民は苗字(姓)を称すること、との布告である。しかるに、その3か月後には石川県から、「婦人はその生家(実家)の姓を称するべきか、それとも夫の姓を称するべきか」の伺いが内務省に出されている。当時の日本国内で、姓をどちらにすべきか相当の混乱があったようである。これに対する太政官の回答はなんと、婦女は結婚してもなお元の実家の姓を称すべきとのものだった。この回答が後世の研究者を誤解させる根本原因となったと思われる。

昔は夫婦別姓だったのか? 再論 -学者の無知と誤解 ー - 小松格の『日本史の謎』に迫る

 

 明治以前の氏の運用は、結婚と同時に夫の氏に改姓することはありませんが、かと言って結婚後も実家の氏を正式に名乗り続ける、ということもなく、普段は「〇〇の妻」とは呼ばれるものの、署名には実家の氏を書いたりなど、運用に幅があったと思われます。

しかし義務化となると、同姓にするか別姓にするかを明確にしなければなりません。そこで混乱が起こったものと考えられます。この混乱を含め、「日本はもともと夫婦別姓だった」が間違いである証拠があります。

  

 つまり、日本は夫婦別姓だったから、従来どおりにしなさいという意味に解釈したのである。それは違う。その証拠に明治30年頃まで全国各地から、「嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方ノ一般ノ慣行」(宮城県の伺い)、つまり、宮城県では一般的に妻は夫の姓を名乗ると言っているのである。また、お膝元の東京府からも、「嫁した婦人が生家の氏(姓)を称するのは極めて少数」とまで言っているのである。

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太政官が「嫁は結婚しても実家の氏を名乗ってね」と言ったのですが、それに対して各地から、「嫁ぎ先の氏を名乗るのが一般的ですよ」とか、「嫁した婦人が実家の氏のままなんて、ほとんどいませんよ」という声があがったわけです。明治9年の太政官命令「嫁は実家の氏を名乗れ」は、日本の実情にぜんぜん合っていなかったのです。

また、「明治民法キリスト教の影響で夫婦同姓を導入した」との主張もありますが、それもまったく見当違いであることは明白です。明治民法には、先進国の仲間入りをするために世界の潮流に合わせたという側面はありますが、「日本は本来夫婦別姓だったのに、キリスト教に合わせて夫婦別姓を強いた」などというのは完全な間違いなのです。

 

さて、ここで疑問が浮かびます。

「明治政府は、なぜ、日本の事情に合わない『夫婦別姓』を適用しようとしたのだろう?」

 

それは、当時の支配層(法を制定する層)である皇族/公家/武家が考える「嫁」と、庶民が考える「嫁」が違うものであったからだと思います。

皇族/公家/武家と庶民が影響を受けた思想の違いもあるでしょう。しかし最も大きな違いは、「相続財産があるかないか」だと私は考えています。相続財産とは家屋敷だけでなく、権力、権威、事業(雇い人を含む)、家のモットー(家訓)などを含みます。

権力者はこれらを相続するために、後継ぎを確定させる必要があります。跡目争いで混乱しないように、正当な後継ぎを決めないと、相続財産が揺らぐ危険性があります。

すると、結婚と同時に嫁を「家族の一員」に入れることは、それなりのリスクがあるわけです。

「子を産まないかもしれない」

「家に従わず、相続を混乱させるかも知れない」

「資産狙いかもしれない」

このようなリスクを避けるため、嫁と家の間に一定の距離を置いておく。これは相続すべきものがある家にとって必要な「リスク管理」と言えるでしょう。このように、支配層には「結婚と同時に嫁を家族の一員とする」という発想が希薄だった。それゆえの、明治9年太政官命令「嫁は生家の氏を用いるべし」だったと思います。

ちなみに、日本で最も大きな相続を行っているのは「皇室」です。側室を良く思う人は少ないでしょうが、相続の責任の大きさを考えると、子が産めないからといって離縁するよりも、「子も必要だが妻も大事にする」という人間的な制度だと思います(むしろ、子が産めないという理由で姑が先導して「追い出し離婚」するという酷い話が聞かれるのは庶民のほうです)。

また支配層と庶民の間には、それなりの資産を持つ層もあり、異なったライフスタイルが混在しているところを法律で全国一律に定めるということは、非常に難儀なことだったと思います。

というわけで、明治9年に始まった「夫婦別姓」は、明治31年民法によって、22年間で頓挫しました。その真相は、支配層の「相続の原理」に基づいた制度を庶民にも適用しようとしたが、大した相続財産もない庶民は「世代を繋ぐ家(イエ)の原理」よりも、結婚と共に妻を受け入れて暮らす「現実的な家族の幸福」を望んだため、と言えるでしょう。